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とりとめもなく。

ひとのブログで、ある歌人のことを知りました。

郷隼人という、アメリカで殺人を犯し、終身刑で30年収監されているひとらしいです。そういう極限状態の方の詠んだ短歌、ということで興味を持ち、ネット上だけですがいくつか読んでみて、なんというか、とても違和感を覚えたのです。

転載していいのかどうかわからないので、ご興味持たれた方は、各自ググって頂くとして、最近深く考えていたこととリンクしていたので、ちょっと書いてみます。


「違和感」の原因はなんなのか、としみじみ考えてみてわかったのですが、刑務所生活の大変さや、日本の母親を思う気持ちなどを詠みながらも、ある意味、とても淡々としているように見えること。つまり、自分の「罪」についての言及というか考察が無いのが、個人的には物足りなかったのです。

刑の重さから考えて、罪状はおそらく第一級殺人。なりゆきでうっかり殺してしまったとかではないと思うのです。

決して、罪の重みを噛み締めながら贖罪の日々をおくるべきということを言いたいのではなく、いずれにしろ重い体験がすでに遠い日の出来事になっているような心象風景に思えて、違和感を覚えたのでした、そう、まるで、命に危険の無い慢性病での、長期の入院生活のような歌。

せっかくそういう立場で歌を詠むのであれば、「命とはなんなのか」「生きる意味とは」などを掘り下げてほしい気がするのです。別に命の重さに気づくべきとかではなく、逆に究極のニヒリズムにたどり着くのでも、それはそれでかまわない。

この方の歌に付いては、少ししか読んでいないので、私の誤解も多々あるかとは思うのですが ... 。


で、最近考えていたことというのは、前近代と近代以降の「表現」の違い。

例えば短歌にしても、平安時代の古今集のような歌なら、秋風の侘しさや、春の陽射しの心躍るような様、あるいは恋心についてをいかに万人が共感できるような形式で伝えられるか、がポイントだったわけです。なので、表現する人の内面は基本関係なかった。

しかし、近代以降の「表現」は、「個人」の「表現」がよしとされる。

「作品」としての写真も、写実だけのキレイな写真であれば、「カレンダー」などと揶揄されたりする。

そして、作者の内面とのリンクも気になる。「愛と平和」を歌う音楽家が極端な人種差別主義者だったとしたら、「ウソでしょ」ということになる。

しかし、現代でも、伝統的な芸術の世界とか、逆に「ポップ」な世界で求められているのは最大公約数的形式の完成度。

それをなんとなく敬遠してしまうのは、間違っているのか?

そもそも、「個人」の「表現」なんて意味があるのか?

とか、とりとめもなく考えてしまう秋。

結論も、落としどころも無いです(笑)。

Grasses
by zebby_kk | 2011-11-18 14:22 | いろいろ